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読書会!

 どうもみなさんお久しぶりです。東京理科大読書クラブです!
 今回は二月に行われた読書会の記事です。
 課題本は「しあわせの書―迷探偵ヨギ・ガンジーの心霊術」でしたが、
 この作品推理小説であり、かつ色々な秘密があるのでネタバレできない!


 というわけで今回は、読書会の記録の代わりに会員がこの本を読んで、読書会を終えた後に書いたエッセイを掲載したいと思います。今回このエッセイを書いてくれたのは八転び七起きさんです。いつも推理小説要員として私裃と熱い議論を交わしている方でございます。今回この課題本を推薦したのも彼です。
 一応内容にネタバレがあるかもしれないので、そこは要注意でお願いします。
 読むぜ! って方は続きへをクリック……。

【推理小説の現実性】

 「しあわせの書―迷探偵ヨギ・ガンジーの心霊術」を読んで最初に連想した本はミヒャエルエンデ著「はてしない物語」である。本という媒体を生かした物語というところに共通点を感じたのだが、この二つはそれぞれ違った狙いを持つように思える。そのことについて少々書きたい。

 推理小説とファンタジーは違うものと思われやすい。例えば、ファンタジーと推理小説が合わさったものと言えば、「折れた竜骨」や「魔術師が多すぎる」などが浮かぶが、よく「言った者勝ち」「言及していない力があるかもしれない」などと言われ批判される。しかし、そもそも推理小説が厳密に現実と等しかったことがあるだろうか。現実に大がかりなトリックが仕掛けられたり、密室が作られたり、そもそも連続殺人事件が起こったりするだろうか。現実の探偵の仕事は離婚調査等であり、まず間違いなく殺人事件に関わることはない。それなのに推理小説は現実的で地に足が着いていると言えるだろうか。結局のところ、推理小説もフィクション、物語なのである。

 また、ファンタジーもそこまで自由なものではない。豊かな世界観とは明確なルールがあることによって存在するものであり破綻してしまえばそれは世界として成り立たない。この点では、提示された状況の中での推理をする推理小説と同じである。また、ファンタジーであっても度を過ぎたご都合主義は批判の的となる。よって、ファンタジーはある程度ルールに縛られるものであり、完全に自由ではないのだといえる。

 さて、ここまで推理小説とファンタジーの共通点について書いてきたが、このことを踏まえて推理小説とは「現実のような虚構」ファンタジーとは「虚構のような現実」を目指しているのではないかと考える。推理小説は作られた謎を理屈という型の中に入れようとするものであり、ファンタジーは現実にはあり得ないと思わせながらも同時にすぐ隣に、またはどこか違う世界にあるんじゃないかと思わせる世界を作ろうとするものと言えると思うからである。

 「はてしない物語」の、本の中に入る少年の物語であるということと、実際に手に取ってみる本がその本と同じ赤がね色であるということは、この目標に対して実に効果的であった。その魅力的な物語世界もさることながら、今手の中にある赤がね色の本が主人公バスチアンが手に取った本なのではと思わせることが、ファンタージエンという世界が実際に存在する世界のように感じられた要因であるといえる。

 ここで一つ言及しておきたいジャンルがある。それは、社会派推理小説である。松本清張の登場により成立し、1950年代後半から70年ぐらいまで推理小説の中心となったものだ。私はまだ生まれていないので、その頃のことは知らない。新本格の作家諸氏の話から見ると、決して本格の作品がなくなったわけではないが、それでも少なく、またおまけ的なトリックの作品で本格であることを中心としないものが多かったようだ。

 この社会派だが、これも現実に近づけるための手法の一つであったと言える。それ以前の探偵小説は見世物小屋的過ぎた。虚構の謎の持つ怪しさ、雰囲気をうまく引き出すことが出来ていたが、その分論理性を二の次にしたものとなってしまった。その結果、現実を離れた、推理小説とはずれたものとなったのである。社会派とは、この虚構の方に行き過ぎた探偵小説を現実側に引き寄せるためのものだったと言えないだろうか。社会派の、現実に存在する問題を取り扱うことによりそのリアリティを増し、事件の謎そのものよりもそこに潜む人の愛憎劇を重視した作風が受け入れられた要因の一つはこの虚構側からの揺り返しがあったのである。これにより社会派はもてはやされ、見世物小屋的趣味とともに本格も息を潜めることになったのである。

 「しあわせの書」は1987年、それら社会派と新本格の間の時代に生まれた。「しあわせの書」は、読んだ人にとってはその仕掛けの方が中身より印象深いものとなっている場合が多い。それほどこの仕掛けは素晴らしく、奇術師としても優れた腕を持つ泡坂妻夫にしかできないものであったと言えるが、それゆえか書評などを読むと「仕掛けに意味があり、中身はむしろどうでもよい」「内容自体は読む意味がない」といった意見が存在する。しかし、この仕組みはあくまでも内容と一体化しているからこそ素晴らしいのである。

 イタコ、読心術、新興宗教、ヨガ、心霊術…作中から単語を取り出していけば、胡散臭い、見世物小屋的趣味にあふれていると言える。軽妙で読みやすい文体に隠れているが、隅々に伏線が仕掛けられ、トリックや謎解きも明確な論理性によって成り立っている紛れもない本格推理小説である。

 これは古い形の推理小説であり、本格への回帰として新本格の兆しと見られるかもしれない。しかしむしろ、これは社会派に続く現実感を持たせるための推理小説の形の一つといえるのではないか。

 見世物小屋的趣味から現実感を持たせるために社会派は誕生した。しかしその社会派も、もちろん今でも素晴らしい作品が生まれてはいるが、一過性のブームと言えるレベルで収まってしまった。これは、推理小説として重要な謎、虚構の部分を軽視した社会派が乱造されてしまったからである。あくまで魅力的な謎があるべきだったものが、社会的問題を取り上げることが中心になってしまい、推理小説の枠から外れてしまったのだ。

 こうして社会派が廃れた時期に生み出されたものである「しあわせの書」が現実感を持つためにとった方法。それこそが本自体を作中で使われる手品の種とすることである。手品の種自体は、他の作中に出たいくつかの手品のように文章によって説明することは可能である。しかし、その場合それまでの推理小説のトリックと同じように、それが実際に出来るかは疑わしく思う人がいるかもしれない。しかし、実際にその種があれば存在を信じることが出来る。一つ信じさせることが出来れば、他のものも実際に出来ることを信じさせることは格段に易しくなる。この仕掛けによって「しあわせの書」は見世物小屋的な、虚構の雰囲気を持ちながらも、その謎に現実感を持たせることが出来たのである。

 また、イタコや透視術などを扱ってはいるが、ヨガの行者である主人公自身が自分のしたことの種を明かしているため、それらにも一貫して何かしらの方法が有るのだと言うことが読みながら感じ取れ、その軽妙で読みやすい文体も相まってそれら超自然的物事に惑わされず推理を主眼として読むことが出来るのである。

 よって、「しあわせの書」は泡坂妻夫が記述しとしても素晴らしい腕を持つ作家だったからこそ誕生したものではあるが、同時に探偵小説の見世物小屋趣味的な雰囲気、社会派の現実感を重視した作風、それらが合わさったために生み出されたものであると言える。虚構であることの魅力を十分に引き出しながらもそこに一貫した論理が存在することがはっきりと分かる、虚構性と現実性のバランスがうまく取れた作品である。最後に、泡坂妻夫氏が2009年2月3日にお亡くなりになったことに、ご冥福をお祈り申し上げて論を終わりたいと思う。



            本文執筆 八転び七起き
            ブログ掲載 裃白沙
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